お互い半白の人になりつつあるR君に
堀尾 耕一
耀かしかつた短い日のことを
ひとびとは歌ふ
ひとびとの思ひ出の中で
それらの日は狡く
いい時と場所とをえらんだのだ
ただ一つの沼が世界ぢゆうにひろごり
ひとの目を囚へるいづれもの沼は
それでちっぽけですんだのだ
私はうたはない
短かかつた耀かしい日のことを
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ
伊東静雄『わがひとに与ふる哀歌』より
ᾄδουσι μὲν τὰς τόθ᾽ἡμέρας,
τὰς ὀλίγας, λαμπράς γε.
ἐν γὰρ ἀνθρώπων μνήμῃ
αἱ ἡμέραι κερδαλέως
χρόνον θ᾽εἵλοντο καὶ τόπον.
ὅθεν δὴ λίμναι πανταχοῦ ἐκ μίας γεγῶσαι,
ὄψιν λυμαινόμεναι θνητοῖσιν,
ἐφάνησαν παρ᾽ ἕκαστον πάνυ σμικραί.
ἐγὼ δ᾽οὐχ ἡμέρας ἀείδω
τὰς τότε λαμπράς, ὀλίγας γε.
νῦν αὖτ᾽ἐκεῖναί μοι ᾄδουσιν ἡμέραν τήνδε.
[ 寧ろ=むしろ、耀かしかつた=かがやかしかった、狡く=ずるく、囚へる=とらえる ]
東京古典学舎開設10周年を迎えるにあたり、あらためて古人の残した書物とのつき合い方に考えを巡らせるうち、おのずと頭に浮かんだのが、もうずいぶん以前に年少の友人からその存在を教わった伊東静雄の詩の一篇であった。いま、詩集それ自体の内在的文脈をひとまず措くとして、古典古代やルネサンスといった「耀かしかつた」時代を扱うわれわれの文脈に引き寄せるなら、この詩の意味するところはおそらく瞭然としており、あえて多くの言葉を費やすまでもないかもしれない。
ただ、それにしても中間部にある「沼」のくだりが難しい。解釈もさることながら、そもそも日本語として読みづらい。この構文は古典語に移したらどうなるだろうか、などと試行するうちにギリシア語訳が出来上がってしまった(残念ながら韻文にはなっていない怪しい代物だが、これは余興として)。そうした手続きを経て、ひとまずはこう理解した。
「ただ一つの沼が世界ぢゆうにひろごり」は次行へと続く副詞的な修飾句と読む。一つの沼が世界中に広がってひとの目に障っている。ところが、これら個々人に映る「いづれもの沼」は「それで」ちっぽけですんだという。「それで」とはつまり、この文の前に戻って、耀かしい日を歌うことによって、あるいはそれらの日が、狡猾にもいい時と場所とを選んだことによって、であろう。この見通しのきかないぎりぎりの統辞、その異物感が、かえって沼の広がりの不気味を思わせる。ただ一つの沼に淵源し、かつ誰の目にも障っているはずの沼。恣意的に取り出された「耀かしい日」を歌うことで、それら一つひとつの沼がちっぽけに見えるなら、それもまた詩の効用ではあるのだろう。が、「私」はこれをきっぱり拒絶する。
では「沼」とは何か——などと問えば、それこそ沼にはまろうというものだが、以下、しばらくお付き合い願いたい。この詩人を語るうえで必読の書ともいうべき杉本秀太郎『伊東静雄』(筑摩書房 1985年)の読解に従うならば、これにはアンドレ・ジッドの短編『パリュード』(paludes = 沼を意味するラテン語 palus の複数形)が関係しているという。『パリュード』の主人公は、ウェルギリウス『牧歌』に登場する牧人ティテュルを書き手とする、その名も「パリュード」という小説を退屈にまかせて書き始めるが、やがてそれにもうんざりし、気分転換にと企てた小旅行からも得るものがない。そして自分の生活を「沼」に喩える。それは要するに「倦怠」の謂であり、詩人はこの小篇を踏まえつつ、各人の抱える沼を、この単一の精神風土が広く蔓延したものと見抜いているという。「沼を見ずにあかるいものだけを見て歌うくらいなら、いっさい歌わざるに如かず」、これが「私」の考え方である、と。
その筆致がいかにも説得力を帯びた杉本氏の論考に学ぶところは多く、もう二十年以上も前に鎌倉の古書店で幸運にもそれを手にして、けっして大袈裟に言うのでなく、詩を読み解くとはこういうことかと初めて教わった気がしたものである。とりわけ、詩集『わがひとに与ふる哀歌』における各詩の配列が「私」と「半身」との書簡のやり取りとして緻密に設計されたものであるという仮説のもと、両者の対照性を軸に詩を分析していく、その手つきは精妙であり、ときに大胆でもある。ただ、今回あらためて「沼」の説明を読み返して、どうにも腑に落ちない点があった。
* * *
まずはジッドの『パリュード』について少し確認しておこう。作中で主人公が執筆を進めているという「パリュード」、これがウェルギリウスの全10歌からなる『牧歌』の「第1歌」に取材したものであることは、小説の冒頭に引かれた詩行から明らかである。その引用は、しかし原典に親しむ者にとっては何とも奇異なものと映る。
et tibi magna satis, quamvis lapis omnia nudus
limosoque palus obducat pascua iunco.
主人公はこの二行を『牧歌』からの引用として、箇所を特定することなく掲げ、すかさず自分でフランス語に訳す。
Je traduis: - c'est un berger qui parle à un autre; il lui dit que son champ est plein de pierres et de marécages sans doute, mais assez bon pour lui; et qu'il est très heureux de s'en satisfaire.
広く流布した小林秀雄訳を添えておく。「譯すぜ、——ある羊飼ひが仲間に話してゐる、俺の牧場は、確かに石ころと沼だらけだが、俺には充分結構だ、俺はそれで満足してゐるから大變幸福だ、と」(ちなみに手元にある岩波文庫は1990年の第8刷だが、このウェルギリウスの引用箇所も含め、ラテン語の活字が欠けていたり綴りが間違っていたりと不備が目に付く)。
この引用がいかなる意味で奇異であるかは、『牧歌』そのものに目を移してみればすぐにも判る。二人の牧人、ティトゥルスとメリボエウス、激動の内乱期にあって、両者の立場は大きく隔たってしまった。ローマに行って彼が「神」と仰ぐ若きオクタウィアヌス(=アウグストゥス)に土地を安堵されたティトゥルス。これに対してメリボエウスは、同じ権力者による、退役軍人に土地を確保するという政策の煽りで、故郷を追われる羽目に。彼はティトゥルスに向かって言う、君は涼しげな木陰に横になり、葦笛を奏でている。けっこうなことよ。それにひきかえ私のほうは、家畜にまともな草地を見つけてやることもできず、ついさっきも、せっかく生まれた仔山羊を死なせてしまったのだ、と。そして、上に引用された詩行がくる。
fortunate senex, ergo tua rura manebunt
et tibi magna satis, quamvis lapis omnia nudus
limosoque palus obducat pascua iunco.
(Ecloga 1. 46-48)
幸せな老人よ これからも君の土地というわけだ
君にはじゅうぶん広いこの土地が——たとえ石ころだらけで
泥臭い藺草の生えた沼が 牧場のそこかしこを浸そうとも
小林秀雄の訳文と比べていただきたい。とても同じ詩行とは思えない変貌ぶりである。まずは発話者からして、これは郷里を追われるメリボエウスの言葉であり、「幸せな老人よ」と呼びかけられているのがティトゥルスであった。二行目の et tibi は純然たる二人称代名詞の「君にとって」という利害の与格であるはずだが、ジッドはいきなりこの行から、それもティトゥルスの言葉として読めるよう引用を始めており、ゆえにこの与格を、聞き手の関心を促す ethical dative と読ませることになる(何という力業!)。magna についても、前行の rura ではなく次行の pascua に一致させて読むほかない。結果、「俺の牧場は〜」という話になってくる(qui parle à un autre「一方がもう一方に」あるいは il lui dit「彼が彼に話す」と間接話法の三人称に仕立てることで、原文は小林訳から受ける印象とは違って主語を断定的に書くことを巧みに回避している。その意味では、同時期にやや先行して出版された堀口大學訳のほうが直訳に近い)。
つまり、『牧歌』第1歌の肝となるはずの、境遇を違える二人の牧人の対話という設定をジッドはおそらく確信犯的に換骨奪胎し、ティトゥルスの自分語りに鋳直してしまったわけである。この小説の原稿を、彼は出版前にヴァレリーにも読んでもらったという。彼らがこれほど知られた「本歌」を単純に誤読することは考えられない。この手の強引さは許容範囲なのか、それとも本当の意味で「沼」が見えているはずのメリボエウスの不在こそが、この小説を読み解く鍵ということか。芸術分野を問わず、前近代に由来する対位法的な構造(contrapunctus)をこともなげに放擲してしまう近代作家の手法には、いつもながら戸惑いを覚えもするのだが。
もうひとつ注目されるのは、小説のタイトルも含め、「沼」が一貫して paludes と複数形で書かれていることである。一般にラテン語の第三変化名詞の単数主格には名詞幹があらわれにくく、近代語には馴染みにくい palus ではなく palud- の綴りがほしかったという事情もあるかもしれない。しかしそれ以上に重要なのは、この綴りが現代フランス語ではもっぱら paludisme すなわち「マラリア」を連想させるという事実だろう。種々の病的徴候としての「沼々」。現にこれを、作者ジッドの個人的な葛藤、すなわちパリ論壇の沈滞した雰囲気(つまりは倦怠)や、あるいは自身の性的習癖に対する罪悪感を言い当てたものとする解釈が広く行われている。
* * *
さて、そんなジッドの『パリュード』を、伊東静雄はたしかに読んでいたようだ。昭和7年に同人誌『呂』に掲載された一文に、おそらく前年に出版された堀口大學訳を読んでの短評が記されている。曰く「外国人のあくぬけのしたしつこさ とでも言ふべき譬喩的精神のファインな表現に感心せざるをえない」と。風刺の意図を探るといったことはせず、あくまで表現者の目線で作家の手腕そのものを評価しているのが小気味よい。ただ、気になるのは「外国人の」という突き放した言い方。深い部分で共鳴できる相手に、はたしてこういう言葉づかいをするものだろうか。
それにしても、「あくぬけのしたしつこさ」という表現が揮っている。これはむしろ、伊東自身の詩に向かう姿勢をはからずも表白したものと見える。彼の作品のいずれもが徹底した比喩的精神に貫かれたものと評されてよいが、しかし生賢しい「寓意」が沈殿せぬよう、そこには徹底した「あくぬき」の処置が施される。結果、日本の近代詩にあって、言語表現がそれとして自律した世界を構築し、ゆえにある種の普遍的な地平を確保することに成功した稀少な例となっている。
ここで、あるいは少し脱線になるかもしれないが、「あくぬき」がよく施された作例として、冒頭に掲げたものと同じく詩集『わがひとに与ふる哀歌』に収録された、筆者の好きな詩をひとつ引いておこうか。
「秧鶏は飛ばずに全路を歩いて来る」
秧鶏のゆく道のうえに
匂ひのいい朝風は要らない
レース雲もいらない
霧がためらつてゐるので
厨房のやうに温くいことが知れた
栗の矮林を宿にした夜は
反落葉にたまつた美しい露を
秧鶏はね酒にして呑んでしまふ
波のとほい 白つぽい湖辺で
そ処がいかにもアット・ホームな雁と
道づれになるのを秧鶏は好かない
強ひるやうに哀れげな昔語は
ちぐはぐな合槌できくのは骨折れるので
まもなく秧鶏は僕の庭にくるだらう
そして この伝記作者を残して
来るときのやうに去るだらう
[ 秧鶏=くいな、厨房=くりや、温くい=ぬくい、 反落葉=そりおちば、そ処が=そこが、雁=がん、昔語=むかしがたり]
まずは「秧鶏は飛ばずに全路を歩いてくる」というそのタイトルの妙味。およそ鳥とは「飛ぶもの」であるところ、そうはせずに「全路を歩いてくる」という対比の鋭さが、いわゆる oxymoron に近い修辞的効果を生んでいる。しかもそれが奇を衒ったものでなく、現にクイナという鳥の習性を踏まえた描写であるところがよい(じつはこの表現自体はチェーホフの書簡から借りたものという。杉本・前掲書)。この鳥に独特のクッ、クッ、という鳴き声は、高空を飛翔する雁の聞かせる昔語りに強いられた、いかにもちぐはぐな相槌に聞こえる。両者の対比を基調とするこの小曲は、けっして哀愁を誘う単旋律に還元されることはない。むろん作者は秧鶏の立場に共感的なのだろうが、最後に「この伝記作者」を登場させることで、安っぽい自己投影にはしっかり牽制を施している。たとえばこうした伊東の詩に向かう姿勢を、「あくぬけのした比喩精神」というのではないか。
それにしても、この秧鶏のいくぶんコミカルにして孤高な姿に親しみを覚えるのはどうしてか。膨大な情報が秒を競って飛びかう現代にあって、世の風向きを気にすることなく、膨大な時間をかけてギリシア語・ラテン語の原文をコッ、コッ、と頷きながら一歩ずつ読み進めるわれわれの姿に、あるいはどこか似たところがあるからかもしれない。まさしく「全路を歩いて」という体で、遅々として進まぬ行く手に広がるのは矮林か、それとも沼沢地か。何にせよ、雁の目に映るはずの大展望パノラマというわけにはいかないのだが……
* * *
というわけで、「沼」の話に戻ろう。冒頭に掲げたわれわれの詩をもういちど引用する。なお、ここでは説明の便宜のため、こちらで勝手に詩聯に書き分けてみた。
「寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ」
耀かしかつた短い日のことを
ひとびとは歌ふ
ひとびとの思ひ出の中で
それらの日は狡く
いい時と場所とをえらんだのだ
ただ一つの沼が世界ぢゆうにひろごり
ひとの目を囚へるいづれもの沼は
それでちっぽけですんだのだ
私はうたはない
短かかつた耀かしい日のことを
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ
この詩において「耀かしい日」と「沼」、さらに輝かしい日を歌う「ひとびと」とそれを歌わない「私」という対比(ギリシア語ならば μέν - δέ で感じられるもの)が枢要な役割を演じていることは、一目瞭然である。上のように詩聯を分かち書きすると、2−3−3−2と交叉配列(chiasmus)をとった対照性(コントラスト)を確認できる。2聯目と3聯目の終わりは分かりやすい脚韻を踏む。1聯目と4聯目は視覚的にもちょうど合わせ鏡のような格好で、「ひとびとは歌ふ」と「私はうたはない」は、おそらく字数も揃うよう調整してある。そして最後に付加された一行「寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ」は、それまでの形式上の均衡を破りつつ、内容的にも意表を突いた結語となっている——「歌う」という行為についての、肯定/否定、および能動/受動関係の逆転。なおかつ最終行の鏡像として表題を眺めれば、これで視覚的な対称性(シンメトリ)が完結する。
このように本作は、詩集全体の中でもひときわ「かたち」への目配りの行き届いたものであることを、まずは指摘せねばなるまい。こうした形式美を有する詩作品を読み解くのに、しかしジッドの風刺的散文との関連をことさらに強調するのはどうなのだろう。杉本氏は『パリュード』で描かれる「沼々」の寓意を「倦怠」と総括したうえで、「倦怠を共通項としている精神風土を世界中にひろがるただひとつの沼と理解したのは、「私」の目の良さだろう」と説明していた。裏を返せば、「一つの沼」が広がっていくという着想についてはジッドの小説に負っているわけではない、という意味だろう。ならばその共通項に、敢えて「倦怠」を読み込む必要があるのか。
なるほど、チェーホフの書簡さえ表現の原資にしてしまう詩人である。「沼」という意匠に『パリュード』が何らかの手掛かりを与えていたとしても不思議はない。ただ、その「ファインな表現」と共に「寓意」までもが持ち込まれたと見るのには、もう少し慎重であってよいのではないか。この詩そのものの与える印象としても、また直前に配された作者渾身の一篇である「漂泊」の余韻からいっても、さらには直後に置かれた、詩集の掉尾を飾る「鶯」(=「火をめぐらす鳥」!)の前奏という役割からみても、およそ「倦怠」が和声の進行を支配しているとは思えないのだ。
* * *
ここで思い出したいのは、むしろ『パリュード』の本歌であったウェルギリウス『牧歌』第1歌のほうである。筆者はいくつかの理由から、伊東静雄が『牧歌』そのものに通じていたのではないかという、ごく微弱な予感に誘われ、次第に(こんな言い方が学問的でないのは承知で)そう信じてもよいのではないかと思うに至った。
「寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ」と同様、『牧歌』第1歌もまた、徹底した対照性によって紡がれた詩であった。その語り出しからして、このことはすでに鮮明である。
Tityre, tu patulae recubans sub tegmine fagi
silvestrem tenui musam meditaris avena;
nos patriae fines et dulcia linquimus arva
nos patriam fugimus, tu Tityre, lentus in umbra
formosam resonare doces Amaryllida silvas.
(Ecloga, 1.1-5)
ティトゥルスよ 葉を広げたブナの木陰に寝そべって
君は細い葦笛で森の調べを奏でるのに余念がない
私は 故郷の地と愛しの野とを後にする
私は故郷を去るのだ なのに君は ティトゥルスよ 木陰に悠然として
麗しのアマリリスを響かせよと 森の木々に教えているのだね
一般にラテン語の動詞は人称語尾によって主語が明示されるため、人称代名詞の主格はよほど主語を強調する時にしか使わない。それがこの詩の冒頭5行のうちに、tu, nos, nos, tu と交叉配列(chiasmus)をとって、しかも nos がいちばん目立つ行頭で繰り返されるのは、「君」と「私」の対比を最大限に強調するためである(一人称複数の代名詞 nos は、よくあるように単数「私」の言い換えと理解する)。土地を安堵されたティトゥルスと、故郷を追われるメリボエウス、両者の緊張関係こそがこの詩的空間を成り立たせている。
こうした対位法的な構造が、すでに指摘したとおり、ジッドの『パリュード』においてはあっさりと棄却されてしまっていた。一対で意味をなしていたはずのものが修辞の位相でのパートナー(contra-punctum)を失うと、表象は「美」へと昇華することに失敗し、自身を支える「意味」を求めてさまよいだす。読み手もまたその「答え合わせ」に明け暮れる。倦怠、論壇の閉塞感、あげくには自慰行為への自己嫌悪をそれは表現しているのだ、云々。だが、あえて言うなら、それこそが「近代性」の抱える陥穽というものではないか。そして伊東静雄が詩人としての独自の地位を確保しているのは、同時代の多くの文人が示すこうした傾向から一線を画し、むしろ「かたち」の美を最大限に追究したからではなかったか。
さてもう一点、単数形の「沼」についても、ウェルギリウスに示唆するものがある。『パリュード』にも引かれた詩行にもういちど注目してみたい。あらかじめ指摘しておくなら、『牧歌』の詩行において牧場の一面(omnia pascua)を藺草(イグサ)で侵食する沼は、複数形の paludes ではなく単数形 palus 、つまり「ただ一つの沼」なのであった(ちなみにジッドはこのラテン語をフランス語に移す際にも marécages と複数形を用いている)。
fortunate senex, ergo tua rura manebunt
et tibi magna satis, quamvis lapis omnia nudus
limosoque palus obducat pascua iunco.
(Ecloga 1. 46-48)
幸せな老人よ これからも君の土地というわけだ
君にはじゅうぶん広いこの土地が——たとえ石ころだらけで
泥臭い藺草の生えた沼が牧場のそこかしこを浸そうとも
この「沼」への言及は、古代の注釈家もいうように、詩人の故郷マントヴァを流れるミンキウス川が氾濫してできる沼沢地が、それとして描き込まれているだけなのかもしれない。だが、『牧歌』の舞台はどこか特定の場所というより、この歌集のおかげで後代「牧歌的風景」の代名詞として定着するアルカディアを筆頭として、多分に仮構された空間と見るのがよい。なぜそこに、わざわざ「泥臭い藺草の生えた沼」が書き込まれなくてはならないのか。自分のほうは土地を失ったメリボエウスの、やっかみを帯びた口吻もあるのだろう。あるいはコニントンの言及するとおり、どちらかといえばティトゥルスと同じく土地を安堵された側にあった詩人自身の、ある種の政治的文脈での自己卑下とも解しうる。何にせよ、詩人ウェルギリウスの目に、その「一つの沼」はたしかに映っていた。
牧人ティトゥルスの目には、しかし、どこまでも「沼」が映ることはない。願う土地に住むことを許してくれた若き権力者を神と仰ぎ、その恩を終生忘れまいと誓う、そんな彼を前に、メリボエウスの憤懣はいよいよ募る。退役軍人どもに呉れてやるために自分は田畑を耕してきたわけではないのに、と。仕舞いに彼は、もはやティトゥルスに呼びかけることをせず、これまで世話をしてきた山羊たちに向けて別れを告げる。
non ego vos posthac viridi proiectus in antro
dumosa pendere procul de rupe videbo.
carmina nulla canam; non me pascente, capellae,
florentem cutisum et salices carpetis amaras.
(Ecloga 1. 75-78)
私はもうこの先 緑の洞に寝ころんで お前たちが
遠く茨のしげる岩に張りつくのを 見ることもあるまい
私はもう歌をうたはない——これからは 山羊どもよ 私の世話で
花咲く詰草やほろ苦い柳を お前たちが食むこともないのだ
放浪を強いられるメリボエウスの目に、自分の山羊たちが食事する眩しい景色が映ることはもう二度とないだろう。そして彼はきっぱりこう告げるのだ、私はうたはない、と。それを聞いてなおティトゥルスは、もう日も暮れるから今夜は泊まっていくがよいさ、林檎も焼き栗も、チーズだって山ほどあるから、ご覧よ、家々の屋根に夕餉の煙はたなびき、嶺々もその影を長くする、などと舌も滑らかに無邪気な追打ちをかけて歌を終える。この残酷なまでのコントラスト、対位法的な曲想に、『牧歌』第1歌は最後まで貫かれているのだった——詩集『わがひとに与ふる哀歌』と同様に。
* * *
伊東静雄がウェルギリウスを踏まえていたのだと確信を持って主張するだけの、つまりは学術的検証(Quellenforschung)に耐える根拠を、筆者はこれ以上に持ち合わせているわけではない。残念なことに、戦前の日本に『牧歌』の日本語訳は存在しなかったわけであるが、それでもヘルダーリンやリルケなどドイツ語詩人の作品に親しむなかで、西洋古典の対訳等に触れる契機は少なからずあったに違いない。あるいはジッドの『パリュード』がそれを促したとも考えられる。逆に、近代日本を代表する抒情詩人がウェルギリウスに触れていたことはありえない、と断ずるのも、それはそれで侘びしいことではある。
ただ、たとえ直接の影響関係に拘らずとも、比喩の背後に思わせぶりな「被指示世界」を引摺ることなく、端的に言葉によって現前する対照性の美を捕らえるという、詩人としての「目の良さ」という点に照らすなら、伊東静雄の語る「沼」は、ジッドの paludes よりも、むしろウェルギリウスの目に映った palus によほど近いといえる。
強いられて故郷を去るメリボエウス——過ぎゆく朗らかな日をいよいよ瞼に焼き付けた彼にこそ、郷里を侵食する沼がはっきりと見えていたのだった。「牧歌的風景」の対極にあって、それを脅かす、光の届かない不気味な広がりとしての「沼」。この一つの沼(palus)に淵源するという、各人におけるその現れ(paludes)は様々であるだろう。不安、恐怖、焦燥、孤独、絶望、嫉妬、憎悪、懐疑、悔恨、あるいは倦怠かもしれない。それら「いづれもの沼」を何と言い換えるにせよ、それらがあたかも視野に入らないかの如くに「耀かしい日」を歌うようなことはしない、と「私」は宣言する。
後の時代によって「時と場所」とが選択された結果、幸運にもわれわれの目に触れるべく伝えられた一群の書物、それを「古典」と呼ぶのだろう。だが、それらを無邪気に謳歌することで、いにしえの桃源郷をも侵食していたというあの「沼」が、視界から消え去ることはないか。彼我のあいだにも、そしてわれわれ自身の周囲にも、無数の「沼々」が広がっているという事実に、目をつむってはいないか。そう問うてみる時、沼がもとは一つだったと見抜く詩人の「目の良さ」にあやかるなら、むしろその一点において、ひょっとすると時空を隔てた古代の人とも通じ合うことができるかもしれない。つまり彼らもまた、曰く言い難い「沼」を抱えて日々を生きていたに違いないのである、と。その沼にじっと目を凝らし、あるいは沈潜さえする時、ようやく本当の耀きをもった日が、ときたまに、自ずとこちらに向けて語りかけてくれることもある。
(2023.3)
< 追記 >
本文を執筆中に、この詩とも深く関わりのある大江健三郎氏の訃報に接しました。書物を通して受けとった豊かな時間への感謝とともにご冥福をお祈りします。私がひと足さきに高校を卒業し、共に音楽に打ち込んだ時間に終わりが訪れた時、年少の友人R君が私に示してくれたのは、伊東静雄の詩そのものではなく、大江氏の美しい短篇「火をめぐらす鳥」だったのでした。やがてわれわれが半白の頭髪で再会するとき、微笑しながらであれ「特別にはそれを思ひ出せない」とこちらが言うのを、いわば先廻りして牽制する意味合いで……
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