新たな船出のために

 

τοῖσιν δ᾽ ἴκμενον οὖρον ἵει γλαυκῶπις Ἀθήνη,

ἀκραῆ Ζέφυρον, κελάδοντ᾽ ἐπὶ οἴνοπα πόντον.   (Hom.Od.2.420-1.)

 



2013年4月に発足した東京古典学舎は、この春、設立当初より塾頭をつとめられた安西眞先生が引退なさるのに伴って、新たなスタートを切ることになりました。従来の趣旨に大きく変更はありませんが、この機会に、当学舎の運営方針をあらためて説明させていただきたいと思います。

 

東京古典学舎は、西洋の古典語であるギリシア語およびラテン語に関する研究、出版、そして教育という三つの目標を掲げて出発しました。このうち、ひろく市民に門戸を開いて古典ギリシア語・ラテン語教育の機会を提供することは、開設以来、活動の中心的な部分を占めています。これを「自由人のための古典語塾」と銘打っているのは、この営みが、社会との関係性のなかで一個の人間として生きていくうえで大切な、ある種の教養(artes liberales)に関わるという自負があるからです。

 

われわれが目指すのは、けっして浮世離れした「高尚な学問」ではありません。かといって、もちろん、古代の言語がただちに実生活に役立つと主張するのでもありません。言うなれば「異質の他者と付き合う能力」としての教養――古典語を学ぶとは、つまりは異なる時空に生きた人々との「間合い」をはかる修練といえるのではないでしょうか。彼らの遺した言葉と対峙するには、語学的な知識を土台として、およそ人間の営為に関するあらゆる想像力を動員することが求められるのです。

 

では、その先に何が待っているのか。答えは人それぞれでありましょう。ただ、現代の日本に生きるわれわれが、西洋の古典語で綴られたひとつのテキストに向き合い、同じ時間を共有する。そのこと自体に、すでに少なからぬ意味があるように思われます。年齢も学習の動機もさまざまな受講者が集い、講師も多少なりと道案内の役目を果たしながら、各自の経験に裏打ちされた「想像力」を持ち寄ることで、思ってもみなかった発見が得られることも少なくありません。語学の愉しみもさることながら、学友同士によって醸し出されるこうした相乗効果こそ、私塾ならではの大きな魅力ではないかと考えます。

 

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ところで、欧州におけるラテン語・ギリシア語教育の歴史をふり返ってみたとき、その基盤となる部分を担ってきたのは、大学ではなく、むしろその前段階にあるギムナジウムやグラマースクールといった中等教育の場であり、またそこで目指されていたのは、主として大学の講義ないしは学術論文のために要求されるラテン語の読み書き能力でした。19世紀ドイツで確立された厳密な学問としての古典文献学は、ルネサンス以来のそうした基礎教育の土壌があってはじめて開花し、実を結んだものでありましょう。

 

その19世紀も後半に入ろうという頃にようやく「開国」した日本にあっては、列強を追いかけた明治・大正期にも、あるいは昭和の高度成長期にも、何にせよ欧米の「最先端」を気にかけ、それに伍することに余念がない一方で、中等教育機関でじっくりと時間をかけて行われるはずのラテン語・ギリシア語に親しみながらその基礎を習得するというプロセスにまで目配りする余裕は、残念ながらありませんでした。

 

日本でこれに類する教育的営為を探すなら、16世紀のイエズス会によるラテン語教育を別とすれば、徳川時代の藩校における漢籍、そして旧制高等学校のドイツ語教育などがそれに当たるでしょうか。むろん、ケーベル先生を師と仰ぎ、日本の大学に「西洋古典学」を定着させようとした先人たちの努力を忘れるわけではありません。けれども、平成期のいわゆる教養部解体・大学院重点化の流れをうけ、文学研究も高度に専門化ないしは細分化を余儀なくされるなかで、こうした基礎教養に関わる営みは、いよいよ既存の組織にその場所を見つけることが難しくなっています。

 

他の文明圏で培われた古典を別の文化風土に根付かせることは、しかし、百年単位の時間を要する事業ではなかったでしょうか。「うわすべり」で終わらせることなく、地理的・歴史的な文脈に見合った仕方で足元を固めることに、少しでも寄与したい。こうした観点から、大学もしくは大学院ではなく、あえてその前段階をなす中等教育機関のあり方を、当学舎の標準的な学習モデルにしたいと考えます。具体的には、常に学習者の目線に立って、どんなテキストを扱う場合にもできるかぎり「入門」クラスで学習した文法教科書への参照を促し、変化形や構文を確認しながら一歩ずつ前進していくという姿勢です。

 

2019年度に開講した「ラテン語作文」講座もまた、そうした発想に根ざした試みといえましょう。文献講読ではややもすると言葉の流通が一方的になりがちですが、作文授業において、辞書や文法書をひっくり返しながら、各自が持ち寄った「宿題」をああでもない、こうでもないと肩寄せ合って検討しあう学友たちの熱量は、古典語につきまとう固着化したイメージを払拭するのに十分なものでした。

 

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基礎を掘り下げ、すそ野を広げようという方向性と、学問的な探求とは、けっして相容れないものではないはずです。日々の地道なテキスト講読から着想を得て、新たな問いが芽生えることもきっとあるでしょう。なにも完成された研究である必要はありません。この書物のこの箇所について自分はこう考えたのだけど、みなさんどう思いますか――まずはそんなやりとりを実現する場として「研究セミナー」の活性化を促します。ひとつの発表が他の学友にとって刺激となり、さらなる探求の萌芽を呼ぶ。こうした好ましい循環ができれば何よりです。

 

学舎設立の当初、われわれは旗印のひとつに「出版」を掲げておりました。残念ながらこの方面でほとんど具体的な成果を示せなかったことは、率直に反省せねばなりません。ここでそれを取り下げようというのではありませんが、その目標に少しでも近づくことができるとすれば、こうした地道な取り組みの、あくまで結果としてでありましょう。また、急速に押し寄せるデジタル化の波にあって、従来の「書物の出版」という固定化されたイメージも、何ほどか更新されるべきものとなっています。当ホームページをこれまで以上に活用し、学舎の活動を様々なかたちで公に発信するよう努めてまいります。

 

さて、2020年はコロナウイルス流行という前代未聞の事態によって、誰もが翻弄される一年となりました。狭い教室での授業実施は不可能ということで、われわれも一時は途方にくれましたが、すがる思いで見つけた zoom という媒体によって遠隔授業がこれほど定着することになろうとは、4月の段階では想像もつきませんでした。これも学友のみなさまのご理解とご協力があってのことと、感謝の思いを新たにしております。もちろん、状況が許せば教室での対面授業の再開を目指しますが、それと平行して「通信教室」による配信を、今後とも大いに活用していく方針です。

 

これからも古典語との触れ合いが、みなさまの日々の生活に豊かな彩りを添えることになれば幸いです。

ひきつづき、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

2021年3月

東京古典学舎 代表

堀尾 耕一